Hopping Women Interview #2

平山美知子さん「自分の道は自分で決める」

平山美知子さんインタビュー

聞き手:金智英さん(博士後期課程 芸術学専攻)

1952年に本学の日本画科を首席で卒業し、同級生だった平山郁夫氏(本学元学長)と結婚後は、氏の一番の理解者としてその多彩な活動を支えてこられた平山美知子さん。シルクロードの旅や文化財保護など平山氏のライフワークとなった仕事の舞台裏では、大きな喜びとともに、芸術家、母、妻としての様々な葛藤があったといいます。人生の岐路や壁にぶつかった時、どのようにして進むべき道を選んできたのか。3月下旬、平山郁夫文化芸術基金授賞式のために来学された美知子さんに、受賞者の一人である韓国の留学生・金智英(キム・ジヨン)さんがインタビューしました。

同級生から夫婦に 平山郁夫氏との出会い

金智英さん(以下、金) 実は私が日本への留学を決めたきっかけは、大学生の時に平山郁夫先生の作品に触れたことなんです。当時の韓国には反日感情もあり、日本の文化があまり入って来なかったのですが、教授が持っていた平山先生の画集を見て、直接この目で確かめたい、日本の美術が知りたいと思いました。それから10年経ち、こうして美知子様にお会いすることができて、とても光栄に思います。

今日は、美知子様の芸術家としての歩み、そして平山郁夫先生のパートナーとしての歩みを振り返りながら、女性の生き方についてアドバイスをいただければと思っています。まず、世界の文化財の保護や芸術教育の支援といった公益のための活動に取り組まれたきっかけを教えていただけますでしょうか。

平山美知子さん(以下、平山) 私が東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科予科に入ったのは昭和22(1947)年です。その前年に男女共学になり、私は女子美術学校に在籍したまま受験したのですが落ちて、二度目の挑戦で受かりました。1クラス16人で、そのうち女は5人。また16人中、4人が16歳でした。その中の1人が平山です。私は21歳でしたから、4歳半くらい年下ですね。「あら、坊やみたいな子がいるわね」というのが最初の印象でした(笑)。「レオナルド・ダ・ヴィンチの黄金分割がどうのこうの」と偉そうに話していて、「生意気ねえ」と歳とった女性軍はあきれていました。

私の家は父が代議士(松山常次郎氏)で、戦後GHQにパージ(公職追放)されたものですから、絵の勉強にたくさんお金を出してもらえる状況ではなかったんです。絵の材料も自分で買わなければいけなかった。それで版画のクリスマスカードを作って売ったら評判が良く、ある人から版画で作品を出すことを勧められたんです。日本画を描くよりも版画を刷る方がいいかなと思って、学校にあまり行かなくなりました。

最終学年になった頃、松山家が代々木駅そばの便利な場所にあることを知った平山が、「松山さんの家でクラス会をさせてほしい」と言ってきました。それ以来、平山は頻繁に家に来るようになりました。ある時、学校に行かない私に「日本画を描かないと卒業させないと先生が言っている」と教えてくれて、それで慌てて描いたら卒業できたんです。その後、平山と私が助手として大学に残ることになり、毎日顔を合わせているうちに、しっかりした男の子だなと思うようになって。

 ご結婚される前から、平山先生は松山家にあたたかく迎えられていたのですね。

平山 元代議士の家ですから出入りが多く、居候も5人ほどいたので、男性が1人くらい増えても目立たないんです。でもさすがに毎日のように来るものだから、ある時、父が私もいる前で「平山君はどういうつもりで来ているのですか?」と聞きました。平山はオロオロしながら「もう少し月給が増えて、食べられるようになったら結婚します」と言っちゃった(笑)。父は「それならちゃんと婚約しろ」と言って、私たちは教会で婚約式を行い、昭和30(1955)年に結婚しました。仲人は前田青邨先生です。前田先生には、以前から「君は月給取り(との結婚)には向かないよ」と言われていました。どういう意味でおっしゃったのかわかりませんけど。

 美知子様は首席で卒業され、様々な賞も受賞し、日本画家として将来を嘱望されていたにもかかわらず、結婚と同時に絵筆を折られました。

平山 私は若い頃から、もし自分を好いてくれるような人がいたら、一番大事なものをあげようと思っていました。私にとって一番大事なものは絵です。当時、アメリカに留学する話もあったのですが、それも断りました。ただ、日本画をやめたとはいえ、絵を作り出すものは日本画だけではありません。
明治生まれの母からは常に「男の人を立てなさい」と言われていました。「いくら平山さんの方が若いといっても、きちんと男の人を立てないと家の中がうまく行かないよ」と。

家族や恩師に助けられながら仕事に邁進

平山 結婚当時の平山の月給は手取りで1万円ちょっと。それだけではとても生活できませんから、私は雙葉第二学園(現・田園調布雙葉)と東京成徳学園という女子校2校で図工の時間講師をしていました。その他にも、東大の先生のお子さんや、カリフォルニア大学から来ていた美術の先生に絵を教えたりして、平山より少し多く稼いでいました。

 1956年に長男の廉さん、1959年に長女の弥生さんを出産されますが、どのようにしてお仕事を続けていらっしゃったのですか。

平山 仕事を続けるためには、誰かに子どもたちを見てもらう必要がありました。ですが、私の母親は既に兄の子供4人の世話をしていました。兄嫁が35歳の若さで亡くなってから、孫たちの面倒を見ていたんです。そこで私たちの息子と娘は広島にいる平山家の義母に見ていただくことになり、6年預けました。広島には平山が学生の頃から仕送りを続けており、そのこともあって快く預かってくれたのだと思います。当時、平山の末妹は小学生くらいでしたから、幼児2人にお母さんを取られて嫌だっただろうなと思います。悪いことをしたと思いますが、他に選択肢がありませんでした。

後になって、3歳くらいまでは母親がそばにいるべきだったかなと思うんです。でも生活するためには預けるしかありませんでした。

 その後、美知子様は平山先生のシルクロードへの旅にも同行されます。

平山 昭和42(1967)年、火事で焼けてしまった法隆寺の金堂壁画を再現する事業に、平山が前田先生の班の一員として参加するんです。平山は3号壁の観音を単独で描くことになり、連日夜遅くまで模写を続けていました。今、藝大の皆さんがどれくらい模写をしているのかは存じませんが、模写は大事ですね。昔の人のきちんとした絵の筆使いなどを習いながら絵を描く作業は、とても自分のためになります。

その仕事を終えた後、金堂壁画の源流と言われる絵を見に行こうというのが旅の目的でした。行き先の候補は、インドのアジャンタ石窟と、アフガニスタンのバーミヤン石窟。大学教員である平山が長期の休みを取れるのは夏の間だけでしたから、比較的暑さが酷くないアフガニスタンを選びました。平山はその少し前にユネスコフェローシップで半年間ヨーロッパに留学し、また藝大の中世オリエント遺跡学術調査団でカッパドキアに行っていましたが、私にとっては初めての海外です。アフガニスタンがどこにあるかすら知りませんでしたが、当時、アフガニスタン研究の第一人者でいらした京都大学の樋口(隆康)先生に話を聞きに行きましたら、現地の状況などをとても丁寧に教えてくださいました。先生方や大使館の方々を含め、周りの人たちには本当に助けられました。

アフガニスタンへの旅行代は84万円。「これを払ったら当分食べられないな」と思っていたのですが、帰国後にスケッチの展覧会をしたら全部売れたんです。「これからも旅行して大丈夫」と思いました。そして周りの先生方からも「次はイラン、イラクに行ってはどうか」「シリアやエジプト、トルコも見てきたらいいですよ」などと言われ、シルクロードに通うようになるんです。

 旅行中、お子さんたちはどうされていたのですか。

平山 最初のアフガニスタン行きの時は、主に兄の子どもたちがうちに来て面倒を見てくれていました。今度は松山家に助けられました。

文化財保護活動のきっかけとなったアメリカでの出来事

平山 ここで最初の「公益」に関する質問にお答えすると、1989年7月、アメリカのスミソニアン博物館群の一つ、航空宇宙博物館をエノラ・ゲイの取材で訪れる機会がありました。平山は原爆の後遺症で白血球が健常者の半分以下しかない時期もあり、思い出すのは辛かったはずですが、それでもB29は見ておきたいと言ってアメリカに行ったんです。

スミソニアンには、フリーア美術館という東洋の古美術を展示する美術館もあり、私たちは航空宇宙博物館を訪れた後、フリーアの地下の収蔵庫を見にいくことになりました。そこには、糊が剥がれていたり、破れていたり、とても展示できない状態の文化財がたくさん眠っていました。そして模写をしている日本人の男性が2人いて、平山は彼らから「自分たちは人種差別を受けていて、どれだけ働いても食べていけない。この実状を美術館の上の人に知らせてほしい」と訴えられたんです。

それまで平山はこのような現場を見る機会がありませんでしたから、とてもびっくりして、館長さんたちに話しました。その後、館長さんたちは議論したようで、修復のプロを日本から呼びたいと言われました。平山は修復するものを日本に持って帰るのが一番だと言い、先方はなかなか納得しなかったのですが、最終的には京都国立博物館の修復室で直すことになったんです。それ以来、平山のもとに修復の話が次々に来るようになり、私たちも世界各地の博物館に東洋文化財の状態を見に行くようになりました。

 そこから本格的に文化財保護の活動を始められたのですね。

平山 そうです。フリーア美術館で働く日本人2人の話を聞くことがなかったら、後の活動はなかったかもしれません。絵描きなら、自分の絵を描いていればいいわけですから。いつ、どこで何が始まるかわからないものですね。

文化財保護というのは、誰かがその場に出向いて、実物の前で指摘しないと状況が変わりません。北欧のある博物館では、台所の湯気が当たる場所に日本の版画が放置されていて驚きました。平山はそういう場面に遭遇するたびに「この絵はこういうふうに保管してください」、「これはこう直してください」と言って回ったんです。もちろん、平山一人でやったわけではありません。旅行はいつも、渡邊明義先生をはじめとする文化庁の方々や修復の専門家の皆さんと一緒でした。

 先ほど、育児では平山家と松山家に、お仕事では大学の先生方に助けられたとおっしゃいましたが、やはり育児と仕事の両立には周囲の協力が欠かせないということでしょうか。

平山 周りに面倒を見てもらおうと思ったら、自分もきちんとしていなければなりません。常に感謝の気持ちを忘れないことです。今の人はしないようですが、盆暮れのご挨拶は欠かしませんでした。平山が外国に行って不在の時は、私が代わりに行ったものです。私たちがお世話になった先生たちは、それぞれものすごい勉強をしてこられて、そばにいるだけでオーラが感じられるような立派な方々でした。そのオーラを受けられたことはとても幸運だったと思います。

 私の指導教官の佐藤道信先生も、そばにいらっしゃるだけでオーラを感じます。

平山 あなたも将来、先生になるのなら、周りに「こういう先生がいるところで勉強できてよかった」と思ってもらえる先生にならないとね。また、いつも助けてもらうばかりではなく、相手が困っている時は自分も助けることです。

子どもたちは親の背中を見て育った

 私には今生後8ヶ月の娘がいて、今年の春から復学して博士論文を書くのですが、出産した女性が仕事や研究を続けることは本当に大変なのだと実感しています。これまでは育児を私や夫の母に手伝ってもらったりしましたが、これからは夫がすると約束してくれました。

でも娘は、私の姿が見えなくなると泣き出すんです。その姿を見て、私は研究をやめるべきなのかと悩む時があります。子どものいる先輩方に相談したら、半分からは「今は大変だけど諦めずに仕事を続ければ、子どもに尊敬される親になれる」と言われ、残りの半分からは「子どもを産んだからには、責任を取って辞めた方がいい。思春期が来た時などに大変なことになる」と言われました。平山家の場合はいかがでしたか。

平山 親も子も一人ひとり違いますから、「私の家はこうだったから、あなたもこうなります」とは言えません。親が一所懸命仕事に励んでいる姿を見て「自分も頑張ろう」と思う子もいれば、曲がってしまう子もいる。長男の廉くんは「自分は親の背中を見て育った」と言っています。夜遅くまで絵を描いている父の姿を見て、自分も何かしなければと思ったのかもしれません。廉くんは幼稚園に入った時に「この子は放っておいても東大に入る」と言われて、放っておいたら、東大ではなく慶応に進みました。レスリング部に入ったものですから、練習にかまけて落第しないかとヒヤヒヤしていたのですが、実際はキャプテンとして同級生や後輩の勉強の面倒も見ていたようです。

ただ、親の背中というのは、わざわざ子どもに見せつけるものではありません。ああしろ、こうしろと口で言っても反抗されるでしょうね。やはり、自分が正しいと思うことを一所懸命するしかない。

 美知子様は子育てや平山先生の仕事のサポートをされる中で、自分の創作活動に打ち込みたいという気持ちになりませんでしたか。

平山 日本画の筆は折りましたが、版画は続けていました。夕食後、「お母さん、版画だよ」と言うと、食卓から子どもたちが他の部屋に移るんです。台所で、訪れた国の思い出などを彫っていました。最近もアメリカで展覧会をしてきたばかりです。

 平山先生は家事をするために台所に入ることはありましたか。

平山 平山は台所に入りませんでした。旅行中の洗濯に関しては、「旅先では苦労は同等なのだから、あなたも自分のものはやってください」と言ったら、自分の靴下やパンツを真面目に洗っていましたけど(笑)。

 女性は家でも仕事場でもいろいろな役割を求められます。

平山 毎日の炊事、洗濯、買い物などに加えて、お手紙や年賀状の整理、一度に何十人も来るお客さんのご飯や布団の用意、犬や猫の世話……。やることがたくさんあって、本当に忙しかったです。でも大変だったけど、楽しかったわね。政治家の家に育ったからかもしれません。松山家は戦前、お手伝いさんが3人くらいいたのが戦後1人もいなくなったのですが、父は「心配するな、人はホコリでは死なない」と言っていました。私、あれだけ動いていたのに、今でも身体検査をすると、どこも悪いところがないんですよ(笑)。

 お子様たちがお二人の背中を見て育ったというお話は、私にとって大きな励みになります。平山先生のご著書などを拝読して、お二人が公益を求めて活動されてきたのは、平山先生の原爆体験の影響が大きいのだろうと思っていましたが、今日美知子様のお話を伺って、人をあたたかく迎え入れる松山家の家風も影響しているのではないかと感じました。

平山 父は東大を出てアメリカに留学し、代議士になる前は朝鮮半島で土地改良事業を行なっていました。戦争中は在日朝鮮人のキリスト教の牧師さんたちを庇う活動もしていました。ですから松山家は韓国とご縁があるんです。私自身は戦後初めて韓国に行った時に美校卒業の方たちと知り合いになり、その方たちはもう亡くなってしまいましたが、つながりは続いています。今は国境を越えて同じ学校で一緒に学べるのですから、いい時代ですね。お互いに尊敬の気持ちを忘れてはいけないと思います。

藝大の後輩たちに伝えたいこと

 最後に、藝大の後輩へのメッセージをお願いします。

平山 今、藝大で勉強している人達を見ると羨ましいなと思うだけです。藝大ってよかったなー、もっと勉強しておくんだったと70年も前のことを懐かしく思っております。

親や先生から「こうあるべき」と教えられても、すべてを自分のものにできるわけではありません。その中で、自分がすべきことは何なのか。何が正しいのか。それは自分で考えて決めるしかありません。また、そのためには自分や他人を犠牲にしなければいけないこともあります。そうやって一所懸命生きて、悪かったと思えば謝る、よかったと思えば皆と一緒に喜ぶことです。何かを犠牲にしてでも正しいことをするのは、端からは苦しそうに見えるかもしれませんが、自分にとっては喜びであることが多いです。

それから、いい本をよく読んでください。私は藤沢周平が好きなのですが、本から教わることはとても多いです。自分の下地になると思います。自分は何をすべきか、何が正しいかを人に聞く前に、いい本を読んで自分で考えることです。

 とても貴重なアドバイスをありがとうございました。

平山 60歳ほど年が離れていますから、お役に立つかどうかわかりませんが。

 私がこれからの生き方を考える上で、とても参考になりました。女性の生き方があまり変わっていないということかもしれません。

平山 今は選択肢が多過ぎて、どれを選ぶか迷ううちに自分を失ってしまう恐れがあるかもしれませんね。やはり正しい選択をするための素地は、いろんなことを勉強して自分で作るしかない。結局、自分で決めた選択ではないと、自分が受け入れられなくなります。

 何を選択しても、得るものと失うものがあるから、自分でじっくり考えることが大事ということですね。お二人の世界的な業績は本などを通して存じ上げていましたが、今日、美知子様のお立場から詳しく聞かせていただき、とても感銘を受けました。

平山 こちらこそ、日本のことを熱心に勉強していただいて、とても嬉しいです。

 


【インタビューを終えて 金智英】

私は、博士論文を執筆中である学生であり、只今生後満9ヶ月を迎える娘を持つ新米のママで、綱渡りをしているような毎日を送っております。研究と育児、そして家事などでバタバタしているママとして、子供にもっぱら集中できていない自分に罪悪感を感じることが多かったです。今回、平山美知子さんの「自分の人生を正しい方向へと一所懸命に生きていく親の背中を見て、子供は育つ」というお話は、私にとって大変大きな視覚の転換になり、励ましになりました。

さらに、自分の生き方は、自分がよく考えて自分が決める、そうでないと結局自分が受け入れられなくなる、というお話が心に残ります。また、自分一人の力で完璧な母や妻、もしくは職業人になれるのではなく、自分や周りの人たちの犠牲と配慮が不可欠であるとの事実もです。インタビューでは、とても淡々と言われましたが、美知子さん自身が前途有望な画家であったにも関わらず、配偶者の内助のために筆を折ったことは、ご家庭の存立のために美知子さん自身から行った最初の犠牲であり、配慮であったでしょう。

人の助けがいかに有難くて大切なことなのか、育児と仕事を並行するようになって、さらに痛感します。シルクロードで出会うオアシスのようなものです。美知子さんがおっしゃったように、私もやはり、周りの良い人たちに恵まれてここまで来られたのではないかと思います。先生の下で勉強できて良かったと常に思う、人として師匠として大変尊敬する指導教官の佐藤道信先生をはじめ、いつも助けて下さる研究室の先輩・後輩たち、そして私の学業のために日本に来てくれた家族など、周りの助けがあったからこそ、ここまで来られ、今も歩めているのです。今の嵐のようなライフプランを遂行していることは、人の助けを貰うことを経験し、また後日には人に助けを与えられる自分になるための訓練でしょうか。

これからは、バタバタしている中でも、良い本などを読んで自分で考える時間を忘れないようにしようと思います。育児と仕事の並立は、これからも長い間、私の中で葛藤し続ける事案かも知れません。物事が不可能に見え、自信がなくなっても、自分で考えて正しいと考える方向へと一所懸命に生きて行くこと、その過程で「ありがとう」と「ごめんなさい」を忘れないこと。今回、美知子さんから頂いた悟りのオアシスです。

長い時間に誠実にインタビューに応じて下さった美知子さん、そして良い機会を下さった学生課の関係者の方々、企画下さったダイバーシティ推進室の関係者の方々に、心から感謝の言葉を申し上げます。


【プロフィール】

平山美知子(ひらやま・みちこ)1926年生まれ。雙葉学園高等女学校、女子美術学校(中退)を経て、1947年に東京美術学校日本画科予科入学。1952年、首席で卒業。卒業作品「坐像」は東京藝術大学となった本学初の買い上げ作品となる。また、美術学部初の女性副手となる。1953年、日本美術院にて「群像」が初入選・初奨励賞受賞。1953年、同展春の小品展にて「猫」が奨励賞受賞、秋季展にて「裸婦」が入選。1958年、国画会展版画部門に「卓上Ⅱ」が初入選。以降、1972年まで連続16回入選。現在、平山郁夫シルクロード美術館館長。

金智英(キム・ジヨン)1984年生まれ。韓国の梨花女子大学校で韓国画と美術史学を専攻し、2008年に文部科学省国費奨学生として東京藝術大学に入学。研究生を経て、同大学院美術研究科・芸術学専攻の修士課程を修了。2011年、同大学院の博士後期課程に進学し、現在、在籍中。博士論文のテーマは、「戦前日本における朝鮮人美術留学生の実態と戦後の活動」であり、日本と韓国の近現代美術史を研究している。2011年、修士論文が東京藝術大学美術学部同窓会 杜の会・杜賞を受賞。2016年、第23回鹿島美術財団賞「調査研究」優秀者に選定。

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