Hopping Women Interview #4

池田千尋さん「一番大事なのは、映画を撮り続けること」

社会で活躍する本学出身者のキャリアを辿るインタビュー、今回のゲストは映画監督・脚本家の池田千尋さんです。大学院映像研究科映画専攻監督領域を1期生として2007年に修了し、2008年に『東南角部屋二階の女』で商業映画監督デビュー。それ以来、作家性の強いオリジナル作品から有名コミック原作のメジャー映画まで幅広く活動する池田さんに、在学時の貴重な思い出、作り続けることの大切さ、業界の少数派である「女性監督」という立場などについて語っていただきました。

写真:西村伊央

助監督の仕事をやめて映像研究科を受験

——まず、藝大の映像研究科に来られる前のことを教えてください。高校時代に映画制作を始められたそうですね。

池田 自分で映画を作ってみたいと思ったのは、中学生の時にクシシュトフ・キェシロフスキ監督『トリコロール/青の愛』を観たのがきっかけです。それで高校では映像文化部に入りました。他に映画を作る人はいない、今にも潰れそうな小さな部でしたが、カメラが1台あったんです。独学で脚本を書き、友達に出てもらって、30分くらいの短編を2本撮りました。その後、映画作りを続けられそうな東京の大学を選んで進学し、映画サークルに入ったり、映画美学校(映画制作者の養成機関)に通ったりしていました。

——映画美学校でも映画を監督する機会はありましたか。

池田 当時の美学校では、初等科(1年目)の約80人の生徒の中で修了作品を監督できるのは4人。頑張ってそのうちの1人になることはできました。でもその修了作品『人コロシの穴』を撮った後に燃え尽きてしまったんです。『人コロシの穴』はカンヌ国際映画祭の学生映画部門に出品され、私もカンヌに行かせてもらったのですが、美学校講師による評価は真っ二つに分かれていました。いろいろな評価や感想をいただいた中で、「池田はモノローグ映画ではなく、ダイアローグ映画を撮らなければならない」と言われたことが特に印象に残っています。その言葉の意味をずっと考え続けていました。

そんなこともあり、2年目の高等科は途中で行くことができなくなり、フリーターをしながら自分はどういう映画を撮るべきなのかを模索していました。でも、どうにもこうにも物事が動かない。このままではダメだと思い、大学時代の先輩のつてで商業映画の助監督をするようになりました。それから1年もしないうちに、藝大に映画の大学院が設立されるという話を聞いたんです。

——助監督の仕事をやめて映像研究科を受験することは、すぐに決心されたのでしょうか。

池田 助監督の仕事は、経験を積むために飛び込んでみたものの、自分でも向いていないなと思っていました。そんな中、お世話になっているプロデューサーに「池田はこのまま助監督を続けていたら、一生監督になれないタイプだからやめた方がいい」と言われたんです。それとほぼ同じタイミングで、映像研究科ができることを知り、すぐに「わかりました、やめます」と言ってやめました。

大学院新設のニュースは当時、あちこちの映画の現場で話題になっていましたね。ただ、情報が漠然としていて、北野武さんや黒沢清さんらが教授であること、入学すれば確実に映画が撮れるということくらいしか私は把握していなかったです。撮る機会を何よりも求めていた私は、このチャンスを逃すわけにはいかないと思いました。

入学試験はとても面白かったです。筆記や面接の他に、実技テストだけでもいくつか段階があったのですが、確か最終の試験が上野校地で役者さんとカメラ1台を用意されて、1日使って大学敷地内で戦争・貧困・差別をテーマにした作品を撮るというものでした。筆記にはほとんど手応えがなかったので、実技の結果や提出した過去の作品を評価していただいたのかなと思います。自分が撮ったものを基準に選んでもらえたことが嬉しかったですね。

追いまくられるように撮り続けた藝大での2年間

——入学して最初の印象は?

池田 入ったばかりの頃、黒沢さんが「この学校では映画のプロを育てる」とおっしゃったことを今でもよく覚えています。私が通っていた頃の映画美学校は自主映画のスペシャリストを育成する場でしたが、芸大はプロを作る場所。監督、脚本、プロデュース、撮影(現在は撮影照明)、美術、録音(現在はサウンドデザイン)、編集と領域が分かれていることからもわかるように、かつて撮影所が担っていたような役割を果たすのだという先生たちの意気込みを感じました。(編註:1970年代以前、日本映画のスタッフと俳優の多くは特定の映画会社と専属契約を結んでおり、各社の撮影所が技術伝承の役割も果たしていた)

——学生同士の関係はどのような雰囲気でしたか。

池田 最近の映像研究科生は学部を卒業したばかりの人も多いと聞きますが、1期生は学部新卒者がほんの数人しかいなくて、年齢も、映画制作の経験値も、バックグラウンドもバラバラな人たちの集まりでした。授業中も校舎の工事の音が続いているような状況の中で、皆、その混沌とした感じを楽しんでいたように思います。ルールもあまりなくて、何か危ないことが起きて初めて「危ないからこれは禁止にしよう」と決める感じでした。

私が入った監督領域は、最初は7人いました。監督領域の学生同士は仲が良かったと思います。皆、個性や持ち味が明確に違っていて、お互いに認め合いつつ、それぞれ自分のやりたいことをやっていました。一方で、お互いの作品の助監督をすることも多く、刺激を受け合っていました。もちろんライバルではあるので、それぞれの作品を教授がどう評価するかは常に気になっていましたが、他の人に対する教授のコメントを聞くことで、自分に足りないものに気づくことが多かったです。

——映画を撮る機会を求めて藝大に入られたとのことですが、実習の量についてはどう思いましたか。

池田 2年間で4本の映画を撮ったので、常に追いまくられるようにすごい勢いで書いて、撮って、編集していました。制作に忙殺されて授業に行けなくなることも……。ひっきりなしに映画を撮るって、他ではできない経験です。本当にスペシャルな2年間だったと思います。

映画監督としての技量を上げるために一番重要なのは、本数を撮ることだと私は思っていて。その経験は若い時ほど必要なのに、実際には若手監督が年に何本も撮れる環境はなかなかありません。そして映画監督の技量というのは、才能やセンス以上に、スタッフやキャストをまとめて全体を掌握して見通せる力がものを言います。人間力というか、人としての能力を高めることが必要になるように思います。

——他領域の学生と組んで映画を作ることがそうですね。

池田 実習を通して、チームで映画を作ること、スタッフに監督として認めてもらうことの大変さを思い知りました。一般的に、自主映画や学生映画の現場は監督志望の人が多く、美術や録音などを担当するスタッフもどこか監督目線で見ている場合があるんですね。でも藝大の場合は、撮影部には撮影部としてやりたいこと、美術部には美術部としてやりたいことがあり、それぞれ私にはない技術や視点を持っている。スタッフと意見を戦わせる上で、監督としてのビジョンをいかに明確に示すことができるかが試されました。

1年次の終わりに、プロの役者さんにも参加してもらって現代版『四谷怪談』撮ったのですが、その頃の私はまだ尖っていて、自分を押し通しがちだったんです。一部のスタッフの反感を買ってしまい、「もう池田さんの現場にはつきたくない」と言われたりしました。

ただ今振り返って思うのは、学校って失敗してもいい場所なんですよね。商業映画の世界でプロデューサーや脚本家、スタッフともめ事を起こすとキャリアに響く可能性がありますが、学校でならまたチャレンジするチャンスをもらえます。

——修了制作は渋谷の映画館ユーロスペースで公開され、藝大映像研究科の1期生の作品ということでも世間の話題になりました。ご自身ではどのように受け止めていましたか。

池田 1期生の作品全般に対して、好意的な感想もあった一方で、「完成度は高いけれど……」というような反応がいくつかありました。「完成度を求めて作っているわけじゃないのに」と思ったりしましたが、今はそのように受け止められたのは当然かもしれないと思います。藝大の映像研究科は、才能を見出すところではなく、才能を実際に生かせるかどうかを磨いていく場所であるというか。商業映画の世界でプロとしてやっていける人材を育てる学校なんですよね。自主映画の映画祭で注目されるような、ものすごく尖った作品はなかったかもしれないけれど、見てくださった映画関係者の何人かには「将来、この人と一緒に映画を作ってみたい」と思ってもらえたのではないかと思います。

経験値の違いを痛感した商業映画監督デビュー作の現場

——池田さんご自身は、修了制作『兎のダンス』を観た藝大教員がプロデュースした作品で商業映画デビューされました。

池田 私の場合は、本当にめちゃくちゃラッキーでした。磯見(俊裕・美術領域教授)さんが脚本領域の一期生である大石三知子さんの修了制作『東南角部屋二階』を気に入ってプロデュースすることになり、ちょうど監督を探していた時に『兎のダンス』を観てくださって、大抜擢していただいたんです。私が参加した時点で、既にたむらまさきさんが撮影、西島秀俊さんと加瀬亮さんが出演することがほぼ決まっていました。

昨今の日本の映画作りは、複数の会社から出資を募って作る製作委員会方式が多く、いろいろな人の意見が作品の内容にも絡んできます。『東南角部屋二階の女』は、そうではない映画を作りたいというプロデューサー2人の思いから生まれた作品で、製作から配給までを主に1社で行なっていました。それで新人の私も、既に決まっていた出演者以外のキャスティングなどを任せてもらえたんです。

——撮影のたむらさんをはじめ、大ベテランのスタッフやキャストとの仕事はいかがでしたか。

池田 たむらさんは、私が高校生の頃に『萌の朱雀』と『2/デュオ』を観て、日本のカメラマンで初めて名前を意識した人です。物事を見ているレベルが私とはあまりにも違うので、一緒に仕事をするのはやはり大変でした。追いつこうと必死でしたが、今日明日で追いつけるはずがないんですよね。最終的には、私が背伸びし過ぎて足元がフラフラになると何も撮れなくなると気づいて、「すみませんが私はここにいるので、ここに来てください」という気落ちでやっていました。

『東南角部屋二階の女』の現場では、特に役者さんたちに助けていただきました。役者さんたちが私と芝居を作ることを楽しんでくださっていたから、スタッフの皆さんもついてきてくれたのだと思います。デビュー作であのような経験ができたことは本当にラッキーでしたね。自分でそう思うだけでなく、周りからも言われます。

——商業作品ということで、それまでの作品から観客層が一気に広がったと思いますが、観客の反応をどのように受け止めていましたか。

池田 自分の作品を観てもらえる喜び自体は、高校生の時から今まで変わっていません。高校の文化祭で上映した時、感動して泣いてくれた人がいたんです。私という一人の人間が考えたことが映画の形で具現化し、お客さんが観た時から、私のものではなくお客さんのものになる。そのことの喜びは自主映画でも商業映画でも変わらないのですが、単純に観てもらえる規模が大きくなったということが嬉しかったですね。

もちろん観客層が広くなるほど、批判の声も増えるわけで、ネットで読んだりすると凹みます。でも同時に、批判されるくらい、多様に受け止めてもらえることはいいことだと思うんです。それだけ価値観が広がったということですから。

一つひとつの現場での出会いが次の仕事につながる

——その後のキャリアについてお聞きします。どのようにお仕事を広げてこられたのでしょうか。

池田 デビューしてからが大変でした! 基本的に映画業界は人のつながりでお仕事をいただくことが多いので、デビューしたからといって、つながりのないフリーの映画監督にすぐ仕事が来るわけではありませんでした。助監督時代の私に「助監督はやめろ」と言ってくれたプロデューサーが『東南角部屋〜』を観てくださって、すぐに携帯ドラマの監督の仕事をくださったのですが、それ以外の監督の仕事はしばらくなかったですね。

キャスティング事務所でアルバイトをしながら、短編映画、企業VTR、メイキングなどを撮っていました。それぞれの現場でお世話になった人とのご縁を大事にしていたら、だんだんとお仕事をいただけるようになったという感じです。ご縁といえば、先のプロデューサーに連れていってもらったゴールデン街のお店で、お店の方と親しくなり、週に一度働いていたこともあります。そこにお客さんとして来ていた方から映像演技のワークショップの講師として呼んでいただいたり、今度はそのワークショップで知り合った方から短編映画の仕事をいただいたいたりとつながっていきました。

アルバイト先のキャスティング事務所にもいろいろと紹介していただいていたのですが、働き出して4年ほど経った頃に、短編映画『とんねるらんでぶー』(「沖縄国際映画祭」関連企画で地域発信型映画の1本)のお話をいただいて、そのタイミングで「そろそろ監督として一本で勝負する時が来たんじゃないの?」と言われたんです。固定給を失うのはとても怖かったですが、確かに甘え続けていては前に進めないと思い、完全にフリーになることを決めました。助監督をやめる時もそうでしたが、このように指摘してくださる方が周りにいる私は、本当に恵まれていると思います。

——藝大教授である黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』では、脚本家として参加されていますね。

池田 『クリーピー』の脚本の仕事は、藝大のつながりで来たわけではなく、メイキングを担当した『凶悪』の現場で知り合ったプロデューサーから声をかけていただいたんです。原作小説はそのままでは映画にしづらい構造だったので、映画として面白い作品になるようにプロット(あらすじ)を作り変える必要がありました。元生徒として、黒沢さんが求めるクオリティの高さは知っていたつもりでしたが、共同で脚本を作り上げていく作業は想像していた以上に厳しかったです。黒沢さんは「こうしたら面白くなると思うんだけど、池田が実際に書いてみないとどうなるかわからないな」というふうな言い方をされるんです。プロットを何度も書き直して、「これなら映画になる」と言ってもらえるまで半年くらいかかりました。

——池田さんにとって、監督・脚本両方または監督だけの仕事と、脚本家として依頼される仕事はどのように違いますか。

池田 脚本家として参加する時は、監督の考え方をキャッチすることに集中します。助監督経験が少ない私は、他の監督の仕事の仕方をあまり見てきていないこともあり、いろんな監督の考え方に触れられる脚本の仕事はとても勉強になります。視野が広がり、自分が監督としてどうなっていきたいのかを考えるきっかけにもなります。

自分は監督か脚本家かといえば、監督であるという意識が強いですね。現場でお芝居を作ることが一番好きなんです。監督としての仕事と脚本家としての仕事、両方させてもらえるのが理想です。

——『先輩と彼女』のように別の脚本家と組む場合についてはいかがですか。

池田 『先輩と彼女』の脚本を書いた和田(清人)くんは、同じ藝大1期生(脚本領域)です。プロデューサーから別々に声をかけていただきました。『先輩と彼女』は、原作の少女漫画のキラキラ感をどれだけ映画で表現できるかというチャレンジだったのですが、和田くんとはお互いにどういうものが好きか知っていて、目指しているものや世界の捉え方が似ているので、とてもやりやすかったです。

最近、藝大出身者と仕事の場で出会うことが増えてきました。大学院を出て10年経ちますが、お互いによく生き残ってこられたなあと思います。生き残ることが一番大変です。学生時代、黒沢さんが「映画監督としての才能は撮り続けることができるかどうか」だとおっしゃっていたことは、一生忘れないです。センスがあるかより、撮り続けられるかどうか。本当にそれしかない。10年経って、黒沢さんがおっしゃっていたことの意味をより実感するようになりました。

女性の映画監督の立場について

——ここからは、映画監督という職業や職場環境についてお聞きします。藝大のダイバーシティ推進室の活動の一つが、上位職を目指す女性研究者支援なのですが、女性の映画監督も少数派ですよね。

池田 女性監督の数は増えてはいますが、まだまだ圧倒的に男性が多いですね。精神も肉体も酷使する体力勝負の仕事ですから、結婚や出産をすると家庭と仕事の両立が難しいのかなと、周りを見ていて思います。もちろん両立されている方もいらっしゃいますが、数は少ないです。男性は妊娠や出産でキャリアが中断されることはありませんから、そこは大きな違いですね。

私は未婚ですが、もし将来、出産することがあれば、確実に仕事を受けられない期間ができてしまうわけで、そこで何かを失ってしまうのかもしれないという不安はあります。これは監督だけでなく、他の領域のスタッフも同じように感じているのではないでしょうか。私たちの多くが会社員ではなく、フリーランスであることも大きいです。

——女性の監督がぶつかることが多いハードルには、どういうものがありますか。

池田 女性の自主映画の監督や若手監督は確実に増えているんです。でもその先に高いハードルがあって。製作費が何十億もするメジャーの商業映画の監督に女性が選ばれることはほとんどない。バジェットの大きな映画を製作する会社の方々に、男性監督に任せた方が安全、安心だという意識が多少はあるような気がします。例外的に大きな映画に抜擢される女性監督はいますが、なかなか続かないという印象があります。

——男性に任せた方が安心という考え方のベースには何があるとお考えですか。

池田 作品規模が大きくなればなるほど、大勢のスタッフやキャストをまとめ上げる能力が必要になります。女性は一般的にミクロな視点を持っていると考えられがちなので、向かないと思われているのかもしれませんね。でも女性が全員そうであるはずはないし、私自身もバジェットの大きい商業映画を撮れる監督を目指しています。どこまで自分の器を大きくしていけるかに挑戦したいんです。

もう一つ、先入観を持たれていると感じることがあって、女性は感情的になりやすい、人間関係のトラブルを起こしやすいと思われがちです。確かにそういう女性監督は存在します。でも男性監督にもいるんです。それが女性の場合だと「やっぱり女性監督は面倒くさい」と一まとめで言われてしまうことが多いように感じます。

そんなこともあって、私は極力、物事を大きく捉えて受け入れようと心がけています。個人ではなく女性で括られてしまいがちなのは、少数派だからでしょうね。多数派になった瞬間に、そういう括られ方はされないはずです。

——伝統的に男性によって作られてきた日本映画の監督像やリーダー像というものがあると思います。そのイメージとは違うが故に監督らしくないと見られることもあるのでしょうか。

池田 それはあるかもしれないです。私なりのやり方でスタッフやキャストの心を掌握しているつもりなのですが、威圧感がないせいか「監督なんだから、もうちょっと威厳を持っていいんだよ」と言われたことが何度かあります。「もっと我を通していい」と言われたことも。でも一緒に仕事をした方たちから「(池田監督のような)そういうやり方もあるんですね」と言ってもらえることもありますし、それぞれの見方がありますよね。大切なのは、私が私という人間の個性を見極めながら、自分なりの方法論を確立していけるかどうかなのだと思っています。

——女性監督同士のつながりはありますか。たとえばアメリカには女性映画人の団体があり、業界内のバイアスに対して声を上げたりしていますが、そういうことは日本では起きにくいのではないかと想像します。

池田 確かに起きないでしょうね。私個人は、同年代の監督同士で集まって話すことは時々ありますが、特に女性だけで集まることはないです。私は監督として仕事する上では、女性特有の悩みはほぼないんですよ。先に言った大きなバジェットの作品への道が、男性よりも難しいだろうなというくらいですね。反対に、女性であることで得している部分もきっとあるはずです。「この企画は女性監督にお願いしたかったんです」と言われたりすると得したなと思います。

自分一人ではなく、他の監督と一緒に現状を良くしたい

——同世代の監督同士のつながりはあるとのことですが、他の世代と比べて、自分たちの世代特有の考え方などはあると思われますか。

池田 ちょうど今、商業映画を撮るようになってきた30代〜40代前半の人たちと話していて、そう感じることはありますね。日本映画の製作状況が好調ではない時にスタートした私たちの世代は、一緒に業界を底上げするために助け合わなければならないと感じている人が多い。よく仕事を紹介し合ったり、現状を変えるために何ができるかを話し合ったりしています。海外との合作の道を切り拓いている人、商業映画でのキャリアを切り拓いている人など、手段はさまざまですが、今力を合わせて映画業界を変えなければ、先細りする一方だという危機感を皆、抱いているのではないでしょうか。

——池田さんは過去にENBUゼミナール(映画と演劇の専門学校)やワークショップの講師もされています。次世代との関わりについても教えてください。

池田 ENBUゼミナールの生徒だった人たちが、今プロの現場に入ってきているので、やる気のある人には仕事を紹介したりして応援しています。現場のスタッフは常に人手不足です。映画作りを目指す若い人が減っていて、現場は高齢化しています。入ってきてもすぐ辞めてしまうんですね。食べていくのが難しいというのも理由の一つです。

次世代を育てるには、若いうちに映画との関わりを持ってもらうことが大事です。私はこの6年間、出身地の静岡県袋井市で小中学生を対象とした映画作りのワークショップを行なっているのですが、参加者たちがいつか映画業界に貢献してくれたらいいなと思いながら続けています。作る側でも、送り出す側でも、観る側でもいいから、何らかの形で映画と関わってほしい。実は最初の年に参加してくれた子が、今、東京の美大に進学して映像を作っています。そういう例を目にすると嬉しいですね。

——最後に、映画の仕事を目指す藝大の在校生にメッセージをお願いします。

池田 自分がどんな監督になりたいか、どんな作品を撮っていきたいかというビジョンを持つことが大事です。人との縁を大切にしながらも、他力本願ではなく、自分の力でとにかく作り続けていくことですね。そして楽しむこと。やはり体力的に大変な仕事なので、「なんで自分はこんなことやっているんだろう?」と思い始めると、辛くなります(笑)。

もう一つは、学生のうちは失敗を恐れないこと。たとえば周りとぶつかって嫌われたとしても、「こういうことをすれば嫌われるんだ」という学びになります。社会に出れば許されない失敗も、学生のうちは学びになる。安パイを踏まずに全力で作品作りに向き合うことですね。私自身、学生時代はいろんな失敗をしましたが、今振り返って後悔することは何一つないんです。


いけだ・ちひろ/1980年、北海道生まれ、静岡県出身。高校在学時から自主映画制作を始める。早稲田大学第一文学部卒業。映画美学校修了制作作品である『人コロシの穴』(02) が2003年カンヌ国際映画祭・シネフォンダシオン部門に正式出品される。助監督として幾つかの現場を経た後、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域を2007年修了。主な劇場公開作品に『東南角部屋二階の女』(08)、『先輩と彼女』(15)、『東京の日』(15) などがある。活動は多方面に広がっており、連続ドラマ作品としてNOTTV『サクラ咲く』(16)、NHKBSプレミアム『プリンセスメゾン』(16)、MVとして乃木坂46 14thシングルカップリング曲『不等号』、上白石萌音オリジナルファーストアルバム収録曲『告白』『ストーリーボード』の監督をつとめたほか、脚本家として黒沢清監督と共同脚本をつとめた映画『クリーピー〜偽りの隣人』(16)がある。また、出身地である静岡県袋井市にて、2012年から現在まで小学生から中学生を対象とした映画作りワークショップ『映画をつくろう』を毎年開催している。

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